2006年08月29日

ミキサー:吉野金次さんのこと

 昨日はとても珍しい小さなコンサートがあった。或る人物を支援するチャリティで、北沢タウンホールという、やけに音の良い「小屋」で行われたそのライブには、矢野顕子が呼びかけた多くのミュージシャンが集まり歌を捧げた。小さなホールに収容しきれないほどの人が観に来てくれたので、とうとう前代未聞の「公開リハーサル」ということも試みることができた。夜の本番にステージに立ったラインアップは、矢野顕子、友部正人、大貫妙子、井上陽水、佐野元春、ゆず、そして矢野顕子から最初に声をかけられたぼくと、最近一緒に活動している仲間の高田漣、高野寛、コシミハル、浜口茂外也、伊賀航、鈴木惣一郎、そして徳武弘文という錚々たるメンバーである。

 これだけのミュージシャンを急きょ一夜に集めたその人物とは、エンジニア+ミキサーの吉野金次氏である。吉野さんは現在、脳梗塞のダメージを克服中なのだ。謂わばトム・ダウドやアリフ・マーディンが倒れたのと同じことがこの日本でも起こっていたのだ。

 吉野さんはとりわけ70年代のポップシーンにとってかけがえのないミキサーであり、自分との関わりでいえば「はっぴいえんど」の「風街ろまん」こそ、吉野さんなくては完成できなかった大事なアルバムである。その後、ソロの「Hosono House」では、本邦初の自宅録音を吉野さんのおかげで実施できたことも重要だった。それがなければ「キャラメル・ママ」も「ティンパン・アレー」もなかっただろう。この時期の大事なシーンには必ず吉野さんがいた。独立心旺盛な人であり、東芝をリタイアして以来、渋谷ジャンジャンの地下にスタジオを設け、そこを「Hit Studio」と名付けて多忙な仕事をこなしていた。沢田研二の一連のヒット曲、山本リンダの「ウララ、ウララ、ウラウラよ〜」もこのHit Studioから生まれたのだ。

 1970年代初頭、はっぴいえんどの「風街ろまん」を計画していた頃、レコーディングを誰にやってもらうかはとても重要な課題だった。今と違い、ミキサーがいなければレコーディングのメドがたたないのだ。しかもそのミキサー次第で音楽の質が決定される。当時の日本はまだ「ロック」の音をちゃんと作れるミキサーも見当たらなかったので、ぼくたちミュージシャンにとってはとても重要な課題でもあり、悩みの種でもあった。一枚目のアルバムをつくる時、知人に紹介されたミキサーと試しに録音したことがあったが、それはロックとはかけ離れた"クラシカル"な音で、お互いに失望を味わったことがある。ぼくたちの演奏力に問題があると指摘され、練習を積んでから来なさい・・と言われた時、やっとこの問題の重要さに気付かされた。なにしろぼくたちは演奏に関しては相当な自負心があり、何故それが録音で再現されないのか、という大問題に向き合わされたからだ。

 そのロックの核でもある「音」に拘った結果、吉野金次と出会ったわけである。当時東芝にいた吉野さんは元ランチャーズだった喜多嶋修とプライベートで実験的な録音をし、そのテープをたまたま聴いて衝撃を受けたことがあった。それはビートルズの実験精神に触発された、かなり高度な内容だったので、ぼくたちは即座に、その音を手がけた吉野さんと「傑作」をつくることにしたのである。

 その新作アルバム、「風街ろまん」は目黒にある黄色い塗装で有名だったモウリ・スタジオで行われた。ところがレコーディングの最終段階になっても、ぼくは一つの曲をずっと完成できていなかった。作詞をした松本隆から渡されていた「風をあつめて」が未完成だったのだが、与えられた期間も差し迫り、ともかくレコーディングに入らざるを得ず、歌いながら作曲するという綱渡りをする羽目になった。その際、吉野さんによる的確なガイダンスが「風をあつめて」を完成に導いてくれたのだ。歌の部分毎にパンチ・イン/アウトを鮮やかにこなす技術にプロの技を見せてくれたが、実際はぼくのだらしなさにかなり我慢をされていたように思う。しかしどんな非常事態にも冷静かつ俊敏に対応するのがプロなのだと教えらたものだ。

 この時の吉野さんは自分のミキサーとしての特徴を「中音域主義」と話していた。それはいわゆる「ドンシャリ」という、中域がカットされ高低域が増幅されていく時代に忘れられがちな音の品格のことだったと思う。その中域の美しさこそ、矢野顕子がピアノの音を録る時に、吉野さんを必要とする理由だ。しかし現在のデジタル音源が主流の時代、吉野さんの中域主義という自尊心は深く傷ついて来たであろうと想像する。

 だが21世紀になってその風潮にも変化が訪れ、「ゆず」のような若手ロックバンドが生演奏でレコーディングするような時こそ、吉野さんの存在は再び際立つようになってきていた。時が巡り、昨年はぼくも狭山で「Hosono House」を30年前の過去から現在へと繋ぐ機会を与えられ、その時PA席で吉野さんも同じ体験をしていたことであろう。その吉野さんが倒れたことは他人事ではない。自分が倒れたと同等のことだ。

 戦後世代が始めたロックという音楽も成熟、洗練、老化、そして再生という輪廻の歴史を持つに至ってきているのだ。死と再生という意味でも、ぼくの世代が消える前に、次の世代に知恵を引き渡す時期でもある。そのような大事な意味を、今回の支援ライブからくみ取ってみることもできる。こうして病気と闘う吉野さんへの支援は、個人という枠を超えて音楽への支援に繋がっていくのだ。
posted by admin at 12:37 | quiet voice 2006