2006年10月20日

境界

 いやはや、忙しかった。結局先週はサボってしまったが、このブログは週一で更新すると宣言した訳じゃないので、忙しけりゃたまに書かないこともある。でもやっぱり書かないと落ち着かなくなっているのがイヤだねえ。いいから書いちゃえ。

 「ほぼ日」のサイトで連載している夢日記は割と読まれていて、友人から「恥ずかしいほど分析しやすい」などと言われた。その通りだと思う。ただしフロイト派の分析なら遠慮したいものだ。だって下半身に焦点を絞り過ぎじゃない?ぼくはより上半身的なユング派にサービスをするつもりでこの夢日記を公表しているつもりなのだ。

 分析と言えば、精神関係の医療機関に行くと、例えば「神さま」と言っただけで、その「患者」は「border」とカルテに書かれてしまうんだそうだ。いわんや「円盤」とか「宇宙人」などと口走ったら最後、もはや境界型では収まらない「あっちに行っちゃった患者さん」ということになる。

 しかし、いわゆる「ボーダー」とは「境界例」(borderline)のことで、狂気と正気の境界をさまよう症例の総称である。しかもそれは精神病ではなく、境界型人格障害という曖昧な代物であり、治療の対象になるのかどうかは疑問である。心の世界から見れば、人間のほとんどがそう出来ているのだから。

 そのようにかなりいい加減な区切りをつけられてしまえば、ほとんどがカルテにボーダーと書かれてしまうだろう。だがそれはミス・ジャッジである。診断する側もボーダーな人間なので、客観性を維持するのは困難だろうし、一方の側に立ってマニュアル化されたジャッジは正確さに欠ける。それは例えば人間の「集合意識」というものを考えた場合、精神の根底には古代から受け継がれてきた霊性というものがあり、それが「神」や「円盤」というシンボルに集約される、という思慮もあり得るということだ。それこそ深遠なるユングの精神分析の立場である。

 実際の境界型人格障害例の多くは、かなり社会的(かつ性的)な動きをするという。自己中心の妄想を現実化する能力に長けているのだ。つまり精力的に他者を巻き込んでいく過程で、自己実現の充足感を得るということらしい。たいてい友人のグループなどの小集団や、町内、隣人などの中で起こるトラブルの中心に、この境界型の人が存在するはずだ。その特徴といえば一昔前なら電話、そして今ではメールなどのメディアを利用することを好む。裏を返せば人に面と向かうことを避ける傾向にある。でもそんな人はあちこちに増加しているに違いない。自分だってそうかもしれないのだ。

 ここでまたカルロス・カスタネダの著書、「ドンファンの教え」を引用することになる。本の中で、ヤキ・インディアンの呪術師「ドン・ファン・マトゥス」が自らの体験を交えて弟子のカルロスに諭す。その中に「小暴君」というのが登場する。道を究めようとする人間にはたいてい、それを阻止しようとする者が立ちはだかる。それを「小暴君」というのだ。人はその小暴君の支配から脱出することにより、「戦士」になるのだという。その「小暴君」の存在は境界例そのものだ。ありとあらゆる手を使い、人を支配しようとする。

 大分前、まだ若くて世間知らずだった頃、ぼくもそんな「小暴君」に巻き込まれたことがあった。ぼくだけではなく、色々なミュージシャンが一人の人間にやられたのだ。その経験では、各々の人が他者のあらぬ噂を吹き込まれ、その結果疑心暗鬼の渦巻きが連鎖するに至った。よく諜報活動の撹乱作戦に使われる手だが、人にとって人間関係の破綻に動じないことは難しい。

 だがそのうち、リークの張本人が周囲の人間から「変だ」と認知されるに至り、今度はその人自身が破綻することになる。さらに妄想は現実性を逸脱していく傾向が強く、時間と共に荒唐無稽になっていく。だから放っておくことが肝心だ。関わって相手になればその人は十全感を持ってさらに活き活きするだろう。妄想が現実に作用していくことに生き甲斐を見いだすからだ。

 そういう自己実現の過程は、正常ならば「善」に向かうはずだが、境界例では何かと「悪」をばらまくのが問題となる。結局その破壊性はその人自身を押しつぶすことになるのだが、それが蕩尽のルールなのかもしれない。そう、犯罪とはこういうものだ。逮捕され名や顔が出ることで犯罪者は心の平安を得るだろう。そうしてみるとこの世の中、境界のまっただ中なのである。

 で、世の中を良い空気にするには、人それぞれの「善」に向かうことしかないね。何が善なのか見境がつかないとしても、それぞれの善は「霊性」の中にあるかも。

posted by admin at 06:16 | quiet voice 2006