2006年07月03日

HOSONO THEATER(1)

 先週まで渋谷のユーロスペースに於て、ぼくが音楽で参加した映画を特集する一週間があった。題して「細野劇場」。主催は「映画上映専門家養成講座」(?!)の生徒さんたちで、恐れを知らぬ実行力のおかげか、映画の上映後にゲスト・トークやライブもあり、連日盛況だった。この場を借りて佐野史郎、キセル、鈴木惣一郎各氏に、そして司会の川村恭子さんらに感謝しておきたいと思う。

 自分が手がけた映画音楽はそれほど多くはない。映画音楽作家ではないので、たまたま数本の映画に関わったということだ。チラシにも書いたように、深く入り込んだものもあれば、行きずりのように関係したものもある。まるで過去の行状を明かされる思いだ。それならば自分自身でも補完しておこうと思う。

 初の仕事は1974年、神代辰巳監督の「宵待草」だった。20代の当時やっていたバンド、「キャラメル・ママ」のメンバーと共に調布の日活スタジオに呼ばれ、埃っぽい土間状態の撮影スタジオにスクリーンがあり、そこにかかるシークェンスを見ながら即興C&W風に演奏したものだ。これぞ伝統的な活動写真の録音スタイルだった。神代監督に挨拶した時には、スタッフになにやら怒っている最中で、灰皿を投げたような記憶があるが、後で聞いた伝説と入り交じってるかもしれない。こっちは無知な若造ミュージシャンだったし、多分バイトで呼ばれたようなものだろう。

 大人になってから本格的な映画音楽の依頼が来た。それがアニメーションの「銀河鉄道の夜」(1985)だ。ところが映像は音楽を聴きながら、後から作るのだという。しかも宮沢賢治の詩のような構成に添っていくと、音楽の数が30数曲になるという。それもほぼ異なる音楽で、バリエーションの融通は利かない。この差し迫った仕事を通して、天から降ってくる音楽を待つということを覚えた。ただし常に「宮沢賢治に気に入られる」ことを考えつつ、無我に入り込み、即興で作るという荒技だ。そのやり方をコシミハルに強要し、その場でモチーフを作ってもらうことも試みたが、その結果は素晴らしいものだった。「ジョバンニの透明な悲しみ」「鎮魂歌」などはその成果だ。

 再び同じ制作陣によるアニメーションの「源氏物語」(1987)は収穫も大きかったが苦い思い出でもある。「銀河鉄道」の成功に比べ、この映画の興業は厳しい結果となったのだ。とはいえ、前回と同じように音楽先行なので、映画の出来は予想不可能のまま作曲を始めた。ここで初めて「邦楽」を勉強することとなり、琴を買ったはいいものの、調弦は適当、弾き方も適当、それがぼくの音楽との接し方だった。後に高名なプロの筝曲家の方から、源氏の琴の曲をカヴァーしたい、と有り難い申し出があったのだが、調弦も覚えておらず、即興で演奏したので再現は不可能だった。もっと丁寧に対応しておけば良かったのだが、残念。もうひとつ重要な弦楽器がある。韓国の伽耶琴(かやぐむ)である。この響きには昔から強い憧れがあったので、たまたま韓国に仕事で行くことがあり、この楽器もその伝手で手に入った。ただしこの楽器は手ごわいので、日系女性の先生について数回ほど習いに通ったものだ。韓国の音楽には感情が溢れ、雅楽でさえ躍動する。こうして邦楽というより、より広い汎アジア的なアプローチを試みたが、うまくいったとは限らない。源氏物語についてのイメージを勝手に飛躍してみると、高床式の南国的な世界が顕れる。ヤシの林の中に社があるようなイメージに、一人勝手に興奮し、その気分で作曲に臨んだのだ。ところが完成したアニメは破綻のない端正なものだった。後日、映画がヒットに恵まれなかったのはぼくの音楽せいだと陰口を叩かれ、八つ当たりにもほどがあると思った。

 しかしその汎アジア的なやり方は、沖縄映画「パラダイス・ビュー」(1985)ではうまくいっていた。音楽のモチーフは多岐にわたり、中近東、インドネシアなどの空気感が沖縄と自然に融合していた。当初、高峰剛監督にこの映画で主演しないかともちかけられたが、素人ゆえにとんでもないこととお断りし、代りに脇役で出演することに落ち着いた。そして出来た映画を見てつくづく主演をやらなくてよかったと思った。沖縄の言葉で長尺を演ずる小林薫の苦労は如何ほどだったか・・。(続く)
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posted by admin at 08:53 | quiet voice 2006