2006年12月10日

あれこれ・・

最近はスタジオに篭りがちで、この欄もお休みがちです。
音楽脳を使い始めると言葉がおろそかになりがちで、
つまるところ、歳も押し迫ってきたことだし、
寒くなったせいもあるのでガチガチです。
そんなこんなで一行情報のような所感を書きます。

アマゾネス
 「そういうのも聞くんですか?」と言われそうだが、
 ファーギーグウェン・ステファニーのシングル・カットは、
 どれもお色気攻撃とマーチ風アレンジが戦闘的だ。
 「ドラム・ライン」以来の流行だということらしい。
 カッコ良いけど幸せそうじゃない、と友人が言った。
 そういえば幸せは何処に行っちゃったの?

近未来
 公開中の映画、
「トゥモロウ・ワールド」
を見た。
 傑作だった「ブレード・ランナー」以来、
 ダメな近未来ものは作られ過ぎてきたが、
 この映画はそういうものとは違った。
 何が違うかといえば、 2027年という近未来が現実そのものだからだ。
 空飛ぶ車も飛んでないし、ロンドンの風景は今と何も変わらない。
 変わったのは少子化という状況の悪化である。
 2009年に世界から子供が消えたのだ。
 原因不明の不妊が人類を絶望に陥れてしまったという設定だ。
 悪化の一途を辿る環境ではありそうな話なので、
 やけに重量感のある映画だった。

水には流せない
 かつてはどんなことも水に流せばそれで綺麗さっぱりしたものだった。
 ギリシャ映画の「日曜はだめよ」に出てくるメルナ・メルクーリは、
 何か問題が高じると「みんなで海にいけば解決よ」
 というようなことを言うのが印象的だった。
 それだけ海は包容力も浄化力もある生命の母だが、
 その海も大変なことになってきている。
 今は何も水に流せない、という時代になったのだ。
 自然の浄化力を越えた汚染が進んだからだ。
 水道には油をはじめどんな有機物も流してはいけない。
 風呂でも髪の毛一本流したくない。
 心のどこかでそう思う自然の声がある。
 だからゴミは外に出せず、自分の中に溜まっていく一方だ。

清水宏
 やる気マンマン男、清水宏のワンマン・ライブを観に行った。
 安田生命ホール客席の妙な所にある柱が気になるということで、
 みんなでそれをウェーヴで運んだのだが、そんなこと説明できない。
 とにかく観なければその面白さが分からない。
 観るには劇場などへ足を運ばなければならない。
 TVでつぶれて行く芸の世界で、そういうことは増えているに違いない。
 次回公演は3月だということで、また観に行くだろう。
 笑いでドーパミンが分泌されるからクセになるのだ。

以上、またそのうち。
posted by admin at 00:16 | quiet voice 2006

2006年11月23日

slapstick

先週、とあるクラブでコメディ・ショーを見た。
そこに出てきた清水宏というコメディアンは衝撃的だった。
「クレイジーなスタンダップ・コメディアン」と紹介された通り、
出てきてしばらく続く神経ショーはまさに狂気の芸だ。
ところがこれが笑える。

これは何者なんだろうという疑惑は笑いに直結していく。
そのマシンガン・トークの不安定な波が観客に伝染していくのは見ものだ。
お約束に慣れた客の神経を逆なでするから、不安が笑いを誘発する。
橋げたから今まさに飛び降りようとする者を平手打ちで正気に戻すような、
おそらくスラプスティックの原形とはこういうものだろう。
本人にも予測不可能なその展開は緊張と弛緩の振幅を増幅させていく。

でも清水宏はまっとうな芸人だ。
最後に披露した「予告編」シリーズの芸は意外なほど正常なものだった。
ともかくもそのエネルギーに客は圧倒され、
忘れることができない経験を与えられたというわけだ。
ぼくにとってこの笑いはリー・エアヴァンス以来の出来事かもしれない。

***********************************
slapstick
【名詞】ドタバタ喜劇 打ち棒 
【形容詞】ドタバタした ドタバタする
slap
【名詞】slaps 平手打ち 非難 侮辱 ぴしゃりと打つ音 
【副詞】ぴしゃりと まともに 突然 
【動詞】slapped, slapped, slaps, slapping
 [自動詞]ぴしゃりと音をたてる at〈…を〉打つ 
 [他動詞 + 目的語]〈…を〉ひっぱたく 〈…を〉無造作に広げる 
posted by admin at 08:12 | quiet voice 2006

2006年11月15日

ふれ合い広場

 「もし音楽に臭いがあったらその場から逃げるだろう」
当時の流行音楽をそう皮肉ったのはかのジャン・コクトーだ。ところがここ東京では臭い空気が充満してても、誰も逃げるものはいない。

 白金にある事務所の通りが下水の臭気で大変なことになっている。特に地下にあるスタジオには外からの汚臭が流れ込んできて、日に数度、この攻撃が繰り返され、音楽を作る環境が破壊されつつある。打ち合わせの時間がよく入る夕刻には大抵充満してくるので、仕事への影響は多大だ。先日も美人が来たのに、この汚臭に見舞われて恰好がつかなかった。いや、美人じゃなくたって恰好はつかないんだが、ともかく緊急事態なのだ。

 ここんとこ東京中がこの臭気に見舞われていて、お洒落な街も台無しだ。西麻布、代官山、銀座、白金・・もうどこもかしこも、夏冬に関係なく、四六時中下水から拡散してくる汚物の微粒子。特にひどいのは首都高の銀座から新富町に抜けるトンネルだ。そこを通るたびに車のエアコンを停止し、窓をしっかり閉じるのだが効果なし。臭いの微粒子はどこからでも侵入してくる。そこの臭気と同じくらいひどいのが、事務所前の通りで漂いだしたのだ。

 ビルが増えた頃からこの状態が激しくなったが、下水の許容量を超えているのだろう。こんな臭気が常に漂っている町の交差点あたりを、ぼくはふれ合い広場と呼んでいる。あっちのビルから、こっちのビルから流れ着いたウンウン君が触れ合う場所だ。我々は人との触れ合いを失ってしまったが、地下では分身達が代りに触れ合ってくれているわけだ。

「やあやあ、こんにちわ!最近ここら辺は混雑が激しいねえ、オタクはどちらへ?」
「アタシは多分ずっとここにいるわ・・」

 こんな状態から推察すると、東京は汚物の上に建っているに違いない。その汚水の放つ臭いオーラに我々はマインドコントロールされているんじゃなかろうか。SFの「バーバレラ」に出てくる都市〜ソゴにもそういう邪悪な地下水があったな。だから誰も文句も言わず、平気なんだ。本当に不思議だが「こんな臭いの、もう我慢ならん!」という声を聞いた事が無い。

 お洒落なレストランなどで、たまにこの臭気が充満していることがあるが、従業員も客も平然としているどころか、気取ったりしてるのを見てがく然とする。しばらくいると慣れてきて麻痺するのが嗅覚なんだろうが、こんなことに慣れちゃいけない。

 こんなウンチまみれの都会で五輪を開催するって?都知事は根本的で地道なことを真剣に考えてないな、こりゃ。ぼくはとうとう我慢できなくて、下水の管轄である都になんとかしてもらうつもりだ。ぼくにとっては聖域であるスタジオが環境破壊されたからね。でも、なんとかなるのだろうか・・さもなくば東京脱出しか考えられない。

2006/11/14
posted by admin at 00:00 | quiet voice 2006

2006年10月31日

飛ぶ

 「ほぼ日」のサイトで連載中の「夢日記」。その話しの続きである。当初はさしあたり20話を提出している現状だが、今週の木曜で17話目となる。で、そろそろ第二期の夢をさらに20話提出することになった。今までは、書きためていた中でも特に笑えるものを選んだので、この先、発表するには少し勇気が要るような、渾沌とした夢を出さざるを得ない。何故そう自己をさらけ出すのかといえば、ひとつは先達である横尾忠則先輩の「夢日記」がとても鮮烈であったことが挙げられる。その芸術家の正直な姿があればこそ、ぼくも夢日記を公開する気力が湧いたのである。もうひとつは人生もそろそろ終盤に近くなり、出すべきものは出し、捨てるべきものは捨てる時期だと思うからである。

 夢日記をつけ始めてかれこれ既に20年は経つ。現在公開中の夢は、テキストを「デジタル」化してからのものだけだが、それ以前の日記はノートに書き連ねている。しかもそのノートは倉庫やダンボールなど、あちこちに散逸したままだ。それをまとめるのはかなり骨が折れるので、サイトに載せる気力はない。おそらく本にでもまとまめることになったら、その中に全部入れてしまおうと思っている。

 記述する以前から夢というものは鮮烈だった。というよりも、鮮烈な夢だから覚えていたのだ。子供の頃は飛んだり落ちたりする夢が楽しかった。でも、生活そのものの中に「飛んだり落ちたり」する感覚が活き活きとあったことも確かだ。

 子供の頃はよく高い塀や石垣から飛び降りて遊んだものだ。傘を広げて飛び降りるという実験に並々ならぬ意欲を持っていたが、いざやってみると何も面白くなかった。中学になって体育館の天井裏へ友人と忍び込み、今までにないほど高い所から飛び降りる、というイニシエーションを実行して、足首を捻挫したこともあった。

 「飛ぶ」といえば忍者だ。ぼくは忍者に憧れた。お祭りの夜店などで「忍者になる方法」という高価な巻物を売っていた。ある時、ためた小遣いでそれを無理して買い、どんなに熟読してもさっぱり理解できない、アホらしい内容にガックリした。水の上を歩く方法とか…。その一方、始まったばかりのTV放送では、年配の役者(「小笠原昭二郎」という)が若武者姿の「猿飛佐助」を演じていた。もちろん生放送なので、スタジオのセットは粗末なのだが、術をやる時だけフィルムだった。逆回転、コマ落としなどで特殊効果を表現していたが、そんなことでさえ面白いものだった。後日、その役者が普段の姿でTVに登場していたのを見たが、カツラをとればツル禿のお年寄だったので、ぼくは何か裏切られた気分だった。

 山川惣治の絵物語、「少年ケニア」は小学校の教室にライブラリーとして保管されていたので、よく読んだシリーズである。日本人の男の子〜ワタル少年がアフリカで両親とはぐれ、マサイ族の賢者に拾われて鍛えられていく物語だ。敵は悪い白人の銃だったりするが、少年はマサイ仕込みの跳躍力で数メートルも横っ飛びする。だからタマは当たらないのだ。「高飛びの術」の訓練は毎日「麻」の低木をジャンプするというものだった。これは後に白土三平の漫画で、忍者の訓練法だと知った。麻の木は成長が早いので、日々高く飛ぶよう訓練されるという。

 子供の頃は庭に植えてあったツツジの木を毎日飛び越えていた。東京に麻なんてものが生えてなかったので仕方ない。ツツジは日々成長することもなかったが、それでも充実した訓練だった。昭和30年代の白金あたりにはまだ原っぱがあり、よくそこでも駆け回っていた。高く伸びた雑草を飛び越えつつ、まるで鹿のようにピョ〜ンと跳ねていく。成長期である自分の身体はやけに脚だけが発達し、予想以上に高く跳べることが自慢だった。脚のはるか下方に地面や雑草が見え、飛んでる自分はスローモーションだが猛スピードに思えた。

 この自慢の走法を公的に試す機会がやってきた。小学校の体力測定である。まずぼくは立ち幅跳びで超人的な記録を樹立した。何故か肺活量もクラスで最高だった。ワタル少年に匹敵してもおかしくない。そしていよいよ本命の50m単独走である。ぼくは自慢の鹿飛びで悠々と自走を始めた。地面がはるか下方に見え、なんと身体が軽やかなのかと感じながら…。ゴールでタイムを測っていた担任の教師が怒鳴った。「オイふざけないでマジメにやれよ、ホソノ!」と意外なことを言う。その奇妙な走り方は一体何だ?ということらしい。ぼくはショックだった。誰よりも早いと思っていたのに、見た目にはただのスローモーションに過ぎなかったのだ。

 この事件以来、ぼくはフザケタ生徒へと自らを変貌させて生活を営むことになる。憧れの英雄であった猿飛佐助も、「杉浦茂」の同名漫画の方に共感し、友だちとは「レレレ、トトト、サイザンスカ?」などと杉浦言葉になってしまった。

 こうしてぼくが見る夢もマンガのようになり、現在にいたる。
posted by admin at 02:55 | quiet voice 2006

2006年10月20日

境界

 いやはや、忙しかった。結局先週はサボってしまったが、このブログは週一で更新すると宣言した訳じゃないので、忙しけりゃたまに書かないこともある。でもやっぱり書かないと落ち着かなくなっているのがイヤだねえ。いいから書いちゃえ。

 「ほぼ日」のサイトで連載している夢日記は割と読まれていて、友人から「恥ずかしいほど分析しやすい」などと言われた。その通りだと思う。ただしフロイト派の分析なら遠慮したいものだ。だって下半身に焦点を絞り過ぎじゃない?ぼくはより上半身的なユング派にサービスをするつもりでこの夢日記を公表しているつもりなのだ。

 分析と言えば、精神関係の医療機関に行くと、例えば「神さま」と言っただけで、その「患者」は「border」とカルテに書かれてしまうんだそうだ。いわんや「円盤」とか「宇宙人」などと口走ったら最後、もはや境界型では収まらない「あっちに行っちゃった患者さん」ということになる。

 しかし、いわゆる「ボーダー」とは「境界例」(borderline)のことで、狂気と正気の境界をさまよう症例の総称である。しかもそれは精神病ではなく、境界型人格障害という曖昧な代物であり、治療の対象になるのかどうかは疑問である。心の世界から見れば、人間のほとんどがそう出来ているのだから。

 そのようにかなりいい加減な区切りをつけられてしまえば、ほとんどがカルテにボーダーと書かれてしまうだろう。だがそれはミス・ジャッジである。診断する側もボーダーな人間なので、客観性を維持するのは困難だろうし、一方の側に立ってマニュアル化されたジャッジは正確さに欠ける。それは例えば人間の「集合意識」というものを考えた場合、精神の根底には古代から受け継がれてきた霊性というものがあり、それが「神」や「円盤」というシンボルに集約される、という思慮もあり得るということだ。それこそ深遠なるユングの精神分析の立場である。

 実際の境界型人格障害例の多くは、かなり社会的(かつ性的)な動きをするという。自己中心の妄想を現実化する能力に長けているのだ。つまり精力的に他者を巻き込んでいく過程で、自己実現の充足感を得るということらしい。たいてい友人のグループなどの小集団や、町内、隣人などの中で起こるトラブルの中心に、この境界型の人が存在するはずだ。その特徴といえば一昔前なら電話、そして今ではメールなどのメディアを利用することを好む。裏を返せば人に面と向かうことを避ける傾向にある。でもそんな人はあちこちに増加しているに違いない。自分だってそうかもしれないのだ。

 ここでまたカルロス・カスタネダの著書、「ドンファンの教え」を引用することになる。本の中で、ヤキ・インディアンの呪術師「ドン・ファン・マトゥス」が自らの体験を交えて弟子のカルロスに諭す。その中に「小暴君」というのが登場する。道を究めようとする人間にはたいてい、それを阻止しようとする者が立ちはだかる。それを「小暴君」というのだ。人はその小暴君の支配から脱出することにより、「戦士」になるのだという。その「小暴君」の存在は境界例そのものだ。ありとあらゆる手を使い、人を支配しようとする。

 大分前、まだ若くて世間知らずだった頃、ぼくもそんな「小暴君」に巻き込まれたことがあった。ぼくだけではなく、色々なミュージシャンが一人の人間にやられたのだ。その経験では、各々の人が他者のあらぬ噂を吹き込まれ、その結果疑心暗鬼の渦巻きが連鎖するに至った。よく諜報活動の撹乱作戦に使われる手だが、人にとって人間関係の破綻に動じないことは難しい。

 だがそのうち、リークの張本人が周囲の人間から「変だ」と認知されるに至り、今度はその人自身が破綻することになる。さらに妄想は現実性を逸脱していく傾向が強く、時間と共に荒唐無稽になっていく。だから放っておくことが肝心だ。関わって相手になればその人は十全感を持ってさらに活き活きするだろう。妄想が現実に作用していくことに生き甲斐を見いだすからだ。

 そういう自己実現の過程は、正常ならば「善」に向かうはずだが、境界例では何かと「悪」をばらまくのが問題となる。結局その破壊性はその人自身を押しつぶすことになるのだが、それが蕩尽のルールなのかもしれない。そう、犯罪とはこういうものだ。逮捕され名や顔が出ることで犯罪者は心の平安を得るだろう。そうしてみるとこの世の中、境界のまっただ中なのである。

 で、世の中を良い空気にするには、人それぞれの「善」に向かうことしかないね。何が善なのか見境がつかないとしても、それぞれの善は「霊性」の中にあるかも。

posted by admin at 06:16 | quiet voice 2006

2006年10月10日

セニョール!

 10月8日に恵比寿ガーデンホールで行われたsonarsound tokyoは予想以上の盛況で、夜中の2時頃に出演したメイン・アクトのセニョール・ココナッツ(SEÑOR COCONUT and His Orchestra)がとても素晴らしいステージを見せてくれた。
 ATOM率いるラテン・ビッグバンドは、音楽の豊かさ、楽しさなど、大事なものを全部持っている希有なバンドだ。かつて話題になったクラフトワークのラテン版は面白いほど衝撃的だったが、最新作ではYMOのカヴァーをラテンに置き換えるというこれも画期的なCDで、ぼくもその出来栄えにかつてない喜びを感じた一人だ。それだけに愈々そのライブが観られるということはとても楽しみなことでもあった。とはいえ、CDでもヴォーカルで参加したぼくらが出ない訳にはいかない。こうしてぼくは「マッドメン」を歌い、高橋幸宏も「リンボ」の歌で参加したのだ。自分自身ステージに出たにも関わらず、ぼくは「観に行った」感が強い。自分の役が終わり即、二階席で彼らのステージを楽しんだのである。

 なによりもラテン・フレーバーが新鮮だった。それは最近のお洒落なカフェっぽいラテンではなく、1950〜60年代のヴァイタルなものに近いので、なおさらぼくの趣味に合う。ヴォーカリストはラテン系だが、サックス、トランペット、トロンボーン、ヴィブラフォン、マリンバ、パーカッション、ベースという編成はほぼ全員がドイツ人なので、コンティネンタルなテイストもある。その昔、ヨーロッパ人がタンゴやラテンに強い愛情を持って始めたコンティネンタル・スタイルだ。フェイクといえばそうだが、それでもラテンの愛に満ちあふれているのだから、本物なのだ。そしてヨーロッパ人ならではのポルカ的要素が見え隠れしているのも嬉しい。しかしそれらを包み込むものは、もちろんATOMにしか出来ないデジタル・ファンタジーだ。そのリズムの根っ子にはYMOなどと共通する感覚があり、ぼくのリズム脳を刺激し共振させるものがある。

 セニョール・ココナッツのマエストロでありブレインであるATOMもフランクフルト出身のドイツ人だが、彼は現在チリのサンチャゴに移住し、チリ美人と家庭を持つ身だ。余談だが、数年前に可愛らしい長女が誕生し、そのミドル・ネームは"Miharu"という。コシ・ミハルから取った名前だ。ATOMがフランクフルトにいたころ、NY在住のテツ・イノウエとぼくの3人で「HAT」というCDを作っていた。その頃まではATOMHEARTという個人ユニットで、現在のエレクトロニカの原形を大量にリリースしていた彼は、今やオリジンのマスターとして尊敬される身である。その後チリに移るという時、ATOMが「マンボをやるんだ」と言っていたのを覚えている。しかしタンゴの国であるチリにマンボはない。だからぼくはサンプリングのことだと思い込んでいた。

 ATOMの頭の中にあったのが、このセニョール・ココナッツというヴィジョンだったのだ。見終わってぼくは彼にお礼を述べた。得難い音楽の楽しさに感謝したのだ。「FUN」という音楽の要素は常にあってしかるべき基本だが、今どきどこにも見当たらないのは深刻なことだったのだ。ATOMが大人になり、こうして楽しませてくれるのは、ぼくにとってこの上ない楽しみである。
posted by admin at 17:32 | quiet voice 2006

2006年10月02日

タヌキの神さま

いろいろな人にいろいろ言われることが多い。
去年のことだが温泉宿に家族と投宿した時、宿の仲井さんが面白かった。
当初は業務的に我ら家族と接していたのだが、翌日は様子が違っていた。

「あのー、旦那さんは(世界の)坂本龍一さんとなにやらやっていたと、
 さっき同僚から聞いたんですが、そうなんですか??」
「はあ、まあ、そういうこともやってましたが・・」
「あらまあ!へエ〜、いえね、同僚の男性が凄い詳しくて、旦那さんにサイン
 をお願いしたいそうなんですよ。」
「はあ、まあ、そういうことでしたら・・・」
「すると旦那さんはもう引退されたので?」
「はあ、まあ、そんなところです。」

と、面倒くさいので引退したことにしてしまった。
だが実際、その頃のぼくは引退したも同様の隠居気分だったし、孫を連れ立っての温泉旅行に来たお爺ちゃんだったかもしれない。温泉の宿では誰しもダラシない気持ちで、浴衣もヨレヨレになりがちなのだから、見るからに引退したムードではあっただろう。しかも、そう言われることに別段腹が立つわけでもない。その奇妙な状況をスンナリと受け入れる自分を、誇らしいとさえ思った次第だ。

先日は大昔に通っていた幼稚園の祝賀会に出席した。60周年記念という、ほぼボクと同じ歳だ。来賓には同幼稚園の卒園者である細田前官房長官もいたり、司会には湯川れい子さんもいたりする。極め付けは幼稚園の顧問である三笠宮崇仁殿下と湯川さんのフォークダンスであった。殿下は戦後日本にフォークダンスを普及させた第一人者であり、「フォークダンスの神さま」である。
それはさておき、その会場で一人の男性から声をかけられた。

「細野さんは(あの天才の)大瀧詠一さんとなにか関係がおありと聞きまし
 たが、本当ですか?」
「ええ、まあ、一緒にバンドなんかをやってましたが。」
「ホ〜ッ、そうですかあ!」

というようなやりとりがあっただけだが、「まただ・・」と思う気持ちが刻まれたものだ。

一時期、かなり以前に続けて体験した不思議なことがある。それはぼくがまったく与り知らない場所に出現する、という興味深い事件である。曰く、

・ぼくは行きもしない下北沢の酒場で毎晩お酒を飲んでいる。お酒は一滴も
 飲めないのに。
・ぼくは行きもしない大阪の公衆電話で電話していた。
・ぼくは行きもしない上智大学のチャペルで、女学生に「ぼくはチャペルが
 好きなんだ・・」とナンパしていた。
・ぼくは行きもしない苗場のスキー場で、娘とホテルにチェックインしてい
 た。その頃は沖縄に旅をしていたのに。

などなど。

こういうことが続いた時、ひょっとすると自己の分身〜ドッペルゲンガーがウロついているのかと怪しんだものだ。実際、YMOのメンバーの名を騙ってウロつく輩も実在したということがある。

さらに奇怪なことがあった。
糸井重里が言っていたのだが、彼がYMOと何かの雑誌で対談していた際、
「この中で誰か脱腸だった人、いる?」という話になったらしい。
そこでなんとぼくが手を挙げたというのだ。
神明に誓ってもしようがないことだが、ぼくは脱腸にはなっていない。
しかるに、冗談でもそんなことに手を挙げる筋合いはないのだ。
だが後日、ぼくの母がさりげなく言った言葉に衝撃を受けた。
「なんで自分は脱腸だったなんて言い張るのよ?」
ある日ぼくが母のいる実家へ行った時に、自らそう宣言したというのだ。
この時ばかりは自分への信用がかなり低下し、狂人になったのかもしれないと不安に陥ったことがある。
この顛末は未だ謎であり、未解決のまま時効になるだろう。

YMOの影響には心身ともに疲労させられたものだ。面と向かって「あのYMOの人相が悪い人」と言われたこともあった。人気がピークのころには、すれ違いざまに「オエ〜ッ」と言う女もいた。この世には悪鬼のような人間がいるものだと観念し、やり過ごすことを覚えた。

また或る時は「伝説の男」、また或る時は「遊び人」、などとも言われた。
一日の中で「太った」だの「痩せた」だのと言われっ放しのこともあった。
このようにいろいろなことを言われて人生を送ると、「良い人」ではいられないこともある。心が乱れている時などはファンらしき人に怒鳴ったことさえあるが、申し訳ないことをしたものだ。

だが人は勝手にイメージを持つものだし、それはほとんど自分の本質にはほど遠い「先入観」であり、それに振り回されてきたことがバカらしいと思うようになった。その結果、或る人間がぼくに会いに来る場合、瞬間にその人が望む姿へと変貌する術を会得したのだ。それを傍らで観察していたコシ・ミハルが、「瞬間変貌」するぼくを「タヌキ」と思ったそうだ。

後日夢に「タヌキの神さま」が出てきて、ぼくがタヌキから人間に出世したと喜んでいるのを見た。因縁は巡って現在、その夢の詳細は、おそらく脱腸事件以来ぼくを変な人と思っている筈の、糸井重里が主催するほぼ日新聞に連載中である「夢日記」の初回に書いておいた。

ともかくその時以来、ぼくはその「お告げ」に免じて、体形もタヌキへと変貌してきたのである。 
posted by admin at 00:00 | quiet voice 2006

2006年09月26日

津軽シャイネス

 週末から三日間、津軽の林檎の里でレコーディングに参加してきた。

 伝統音楽振興財団の主催で、「つるとかめ」というCDシリーズがある。民謡界の大御所、津軽出身の澤田勝秋さんと、邦楽界異色の才人である木津茂理さんによる異色のセッションが「つるとかめ」という名で組まれ、今回その3枚目のCD制作になる。

 津軽平野の林檎園は今が盛りの収穫期だった。小さな町である鶴田にも林檎園が広がり、富士見湖にかかる総ヒバ作りの太鼓橋を渡れば、そこは彼岸かと思わせる景色だ。彼岸の里の宴会では「じょんがら」の三味線が奏でられ、「山うた」のこぶしが岩木山にこだまする。ここは天国だろうか、ぼくはお彼岸の日にそう感じていた。

 津軽には可愛いものがふたつある。林檎に人間だ。「林檎かわいや、かわいや林檎〜」という歌そのままに、赤い紅玉がこんなに可愛いものかと思わず頬ずりしたくなる。その林檎を大事に育てている人たちも可愛い筈だ。ここら辺では生まれたままの人が多いのか、せっかちでよく笑い、冬の寒さに負けない明るさを持ち合わせているようだった。しかもとてもシャイなのが可愛い。

 澤田さんもそういう一人だった。ぼくの参加に非常に緊張されていて、「どんなにコワイ人が来るのかと思ってた」と言う。どうやらぼくの「東京シャイネス」にホっとしてくれたようなのだ。ところが澤田さんは民謡界での大御所である。その歌と三味線は国宝級なのだ。

 この「つるとかめ」を思い立ったのは木津さんだった。彼女は民謡の行く末を真剣に考えている数少ない邦楽家である。かつてここ津軽の森田村という野外円形劇場で一緒に演奏して以来、伊勢の猿田彦神社や熊野の大斎原などで演奏した「モンゴロイド・ユニット」に参加してくれていた。その木津さんがライフワークとして見いだしたのが、澤田さんと組んで日本の伝統音楽を根っ子に戻って見直す、というコンセプトである。若手の才能と大御所の力量が組んだことで、異色のCDがつくられるようになった。

 その第三弾のセッションに呼ばれたのが浜口茂外也とぼくだった。門外漢の僕たちは民謡をポップ・ミュージックの耳で聞くような、音楽の放浪者だ。なにか出来るとすれば、民謡にグルグル巻かれた縄をほどくことだろうか。主に「リズム」という視点から解きほぐすという試みは、今回のセッションで成功したように思われる。ルールを尊重した上でギリギリまでリズムの根源に回帰してみた。隠岐の田植え歌はインドのパンジャブに数ミリ近づき、西馬内音頭は本来の日本の音霊がほんのり顔を顕した。

 これら「新解釈」が民謡界にどのように受け入れられるのか、振興財団は半ば不安なのだろうが、でき上がった音楽はドキドキするような音を孕む、民謡の枠を超えた地球の音楽だ。まずは世界中の人に聞いてもらうべきだろう。発売されるころ、またここで報告するとしよう。
posted by admin at 14:15 | quiet voice 2006

2006年09月21日

「東京シャイネス」DVD!

 この歳になって初めてソロのライブDVDが出るとはねえ。今まで何をやってたんだろう・・ボーッとしてたんでしょうか。

 9月18日は敬老の日ということで、ぼくは既にお祝いされる側に立っていることにがく然とした。娘に「ぼくはいつからお爺さんになったんだろう?」と聞くと、孫が生まれてからじゃないの?という答え。そりゃそうだが、人間はどこから「老人」になるのか、興味深い。ある年齢になれば、健康診断などのお知らせが役所から届いたりするし、映画鑑賞の代金が安くなったり、公共の乗り物も無料になるらしい。老化などは個人差があるのに、社会的立場が年齢で決定されるのは居心地が悪い。それは少年法の匿名問題にも通じることかな。

 さて、一緒に祝われていた母がこのDVDを見て感想をひと言。「"第三の男"はいい映画だったし、あの音楽も忘れられない‥それに比べて(ぼくの演奏は)間が抜けてる」という直球にズキンとやられてしまった。「あのねえ、アントン・カラスのチターと比べられても‥」と弁明する気力も萎え、親の手厳しさも健康の証と受け止めた次第。

 このDVDの特典には「隠し映像」が収められているが、届いた製品版の特典メニューを開いて探せど、どこにも見当たらないので焦った。さては構築に失敗したか?と思いきや、若干みつけにくくしてあるのも意図があってのこと、と思い出した。なにしろその映像は自分でカメラをセットし、一人で歌ってるヘンテコなものだからだ。振り返ってみればこの一年、数度に渡るライブで歌った「風をあつめて」という歌・・これを間違えずに歌えたためしが無い。それが悔やまれるのでDVDに完全版を収録することにしたのだ。ところが何度歌ってもやっぱり途中で間違えてしまう。その映像を後で見ると、これがまた面白いったらありゃしない。誰も見ていない所での独演は「地」が出てしまうものだが、つくづく自分が根っからの浅草風ファニーボーンだと再認識するハメになり、いっそのことこの数回の間違い版も特典に収録することにしたのだ。ところがこういう類いのものこそ隠してもおきたくなるのが常で、デザイナーの岡田君がワザワザ見つけにくくしてくれたというわけだ。
 
 DVDを手にした方へ補足しておこうと思う。特典映像のメニュ画面に飛ぶと、メンバーの顔が恥ずかしそうに赤く反転する。しかしこれはただただ赤くなるだけで、何も起こらない。「東京シャイネス」だけにみんな恥ずかしがり屋さん、ということを顕しているだけだ。例のヘンテコ映像を見るにはここで「偶然」の味方が必要になる。それがなければ映像が隠れていることさえ知られないだろう。「誰も知らない」という寂しい事態を避けるため、「映像が隠れてるヨ」とここで教えちゃうべきだろう。逆にある日偶然映像が開いたりすると、発見の喜びにひたれるということもありかな。とはいえ「Misty」のようなゲームじゃないので、攻略本を出すほどの隠しモノでもなく、既に見られた方もいるんだろうね。

 今回はここまで、また来週!
posted by admin at 00:00 | quiet voice 2006

2006年09月11日

9.11

 9日の夜、レイト・ショウで映画を観た。いつものようにポップコーンを買い、いつものように通路側の席に陣取る。しかしこれはいつものような映画ではなかった。「ユナイテッド93」(UNITED 93)は観賞する映画ではなく、体験の共有である。映画館へ向かう時に心のどこかでドキドキするものがあり、それは「見たくない」という気持ちを抑圧していたのだろうか、よくあるパニック映画を観るかのごとく、心の準備を故意に怠ったまま見てしまい、抱えていたポップコーンに違和感を覚え、床に置いてしまった。

 2001年9月11日、NYのニューアーク空港を離陸したユナイテッド航空のボーイング機は、他の3機と同時にハイジャックされたが、乗客の有志は犯人に立ち向かい、操縦桿を確保するに至るが間に合わず、墜落してしまう。これは5年前にリアルタイムに報道された事実だが、その詳細を描いた「ドキュドラマ」である。監督のポール・グリーングラス(Paul Greengrass)は2002年の作品、「ブラディ・サンデー」で1972年の北アイルランドで起きた事件、「血の日曜日」の映像化をそのドキュドラマという手法で成功させた才人である。この「ユナイテッド93」ではその手法が極限まで駆使され、そのせいか手持ちカメラの「揺れ」に若干惑わされる。見ていて思う〜これはドキュメンタリーではなく、俳優が演じている再現映画なのだ。故に過度な手ぶれは製作の意図が見えすぎてしまうし、大画面で見るには三半規管への影響が大きい。これが最後まで続くかと思うと滅入ってしまう。しかしその懸念は前半の離陸までに過ぎなかった。何しろ飛行機が揺れているし、起きていること自体が眩暈そのものだったからだ。

 この映画には有名な俳優は出ていない。そればかりか、管制塔のチーフや軍人の幾人かは、5年前に実際その場にいた人物である。先にそれを知っていれば重みを覚悟できただろうが・・。ところで飛行機が乗っ取られて危機に陥り、無事帰還するというパニック映画は過去何度か観てきた。そのパニックの経過はこの「ユナイテッド93」も共通するのだが、最後には墜落して全員死亡してしまうところに9.11の重い事実があり、それを突きつけられる。映画の出来不出来を超えた事実だ。もしトム・クルーズやブルース・ウィリスが主役を演じていたら飛行機は墜落しない。事実と映画の決定的な違いである。隣の会社員らしき男性は見終わった後、嘔吐でもするかのようにうな垂れていた。他方でもう一本の映画がある。今月後半に公開される「ワールド・トレードセンター」はさらに重い事実を扱っているが、こちらは主役がニコラス・ケイジであることから分かるように、ハリウッド式の映画なのだろう。違う意味で「見たくはない」ものの、やはり見ざるを得ないと思う。

 何故見るのか?それは9.11を境に世界が変わったからであり、それがどういうことかを見極める必要があるからだ。そうした現在、米国では「9.11同時多発テロ=陰謀説」の声が湧き上がってきている。そのような現象の根っ子には、世界が悪い方向に進んでいることへの強い不安がある。9.11をきっかけに、ブッシュ政権によるアフガン進攻までは「止む終えない」というような理屈が通っていたが、イラク制圧から以降は理屈に「屁」が付きはじめた。この米国による「正義」の綻びは今や極限だろう。10日の報道によれば、米上院情報特別委員会が、イラクの旧フセイン政権と国際テロ組織アルカイダとの関係を否定した報告書を発表した。これを受けて自民党の武部幹事長も「イラク戦争の検証が必要」とコメントしている。
 
 8月に終戦61年を迎えた日本だが、世界では既に戦後どころか、戦争が戦争を生むような、戦中でもあり戦前でもあると言える状況だ。この果てしない争いから人類は脱却できるのだろうか。同時多発テロを思うこの時期、あらゆる事件の検証が取り沙汰されることは偶然ではない。自分の内も外も、気をつけて見守っていこうと思う。
____________________________

追記:訃報・犬丸りんさん

 昨日10日はWHOが提唱する「世界自殺防止デー」でしたが、そんな日に漫画家の犬丸りんさんが、自ら命を絶ちました。TVアニメでヒットした「おじゃる丸」の原案で有名ですが、デビュー時に週刊誌で連載された「なんでもツルカメ」がぼくは大好きで、そこに出てくる「りんちゃん」というおかしな少女が御本人だろうと想像していました。そのイメージと今回の訃報がどうしても重ならないんです。そのころ何かの雑誌に「りんちゃんのファンだ」と書いたら、犬丸さんから編集部を通してお手紙をいただきました。それなのに当時のぼくは忙しさにかまけ、返事を出しそびれたままになっていて、それが悔やまれます。犬丸さんの御冥福を祈ります。
posted by admin at 16:06 | quiet voice 2006

2006年09月04日

HOSONO THEATER (3) "Funny Bones"

 6月に渋谷ユーロスペースで企画された「細野劇場」最終日には、音楽からみた「自分のお気に入り映画」をかけることになった。そこであれもいい、この映画もいい、などとあれこれ楽しく候補をあげたのだが、実際は殆どが上映不能だった。映画のシステムは良く知らないが、既に権利が切れていれば上映できない。極く最近のものか、はたまた古典クラス以外は殆ど上映できない、ということが分かってガッカリした。そこで最近見た映画の中で特に音楽的だと感じた「ベルビル・ランデヴー(原題: Les Triplett de Bellville / シルヴァン・ショメ(Sylvain Chomet)2003年作品)」をかけることにしたのだ。DVDもさることながら、この仏アニメーションは劇場で見ると更に素晴らしく、稀に見る音楽的な映画であることを再認識した。

 普段我々は上映権のない映画でもDVDで見ることができる。そういう点では良い時代になったものだ。家に映画館の設備を持つ金持ちはさておき、昔は映画というものは心や記憶に留めておくしかない、幻燈とも言うべきものだった。故にビデオがこの世に登場した時ほど嬉しかったことはない。製作費数十億円というハリウッドの大作を個人で所有することができるようになった。だがそれでもビデオ化されることもなく、二度と出会えない恋人のような映画も多い。DVDをコレクションし過ぎて途方に暮れるような今となっては、昔のように心に留めておくのも良いと思うようになってきている。

 この映画を人々に見せたい、などという欲求は今まで持ったこともなかったが、こういう機会に際し、余り話題にもならず市販もされないが、ずっと気になっている映画を見てもらおうと初めて思った。その映画はピーター・チェルサム(Peter Chelsom:最近作は「セレンディピティー」2001年)作品の「Funny Bones(邦題:骨まで笑って)」(1994)である。ところがこれは上映権がなかった。日本版はDVD化されておらず、となると今ではもうレンタル・ビデオでしか見られない。それもそろそろ消えかかっているに違いない。

 音楽好きのぼくにとってこの映画は重要だ。レイモンド・スコット(Raymond Scott)という破格の天才作曲家を知り得たのも、この映画の各所に使われていたからだ。映画の主題は笑いの探求であり、大喜劇役者(Jerry Lewis)の息子(Oliver Platt)が笑いの才覚に恵まれず、ついに「生まれつきのお笑い芸人(Fanny bones)」の里、イギリスの避暑地でもあるブラックプール(Blackpool)に旅立ち、笑いのネタを仕入れに行く、という話だ。そこに登場する芸人は本物で、リー・エヴァンス(Lee Evans)という若手の才人に加え、ジョージ・カール(George Carle)という名うての芸人のネタを見ることもできる。リー・エヴァンスは芸達者なファニー・ボーンとして、映画の中で「The Radio」というパフォーマンスを見せる。そのシーンだけでも見る価値がある映画だ。柳沢真吾という日本の芸人?に見せたいほど、雰囲気が似ている。エヴァンスはフィフス・エレメンツ(The Fifth Elements〜1997)にも端役で出演している。マウス・ハント(Mouse Hunt〜1997)では主演だが、映画はあまり話題にはならなかった。それよりもTVやカナダのコメディー祭への出演が際立ち、日本で知る機会はほぼ皆無である。ジョージ・カールについてはさらに情報が少ない。かつてTVでサーカス芸のドキュメンタリーに取り上げられていて、その芸にびっくりしたものだ。エド・サリヴァン・ショウのゲストでの演技はかつて衛星放送で見ることができた。その持ちネタで有名なのは、マイクのコードが絡んで大変なことになるというもの。これは今年(2006年)の正月の恒例TV番組、「新春かくし芸大会」で堺正章が完全コピーをしたものが放映された。その際、堺正章はジョージ・カールの芸であることを明言していたのが嬉しかった。ぼくも時々舞台で、ジョージ・カールの「だんだん小さくなってく」という芸をちょこっと披露したりする。そんな希代の芸人が主役級で出ている劇映画、それが「骨まで笑って」なのである。ジョージ・カールはこの映画の5年後、2000年1月にこの世を去ってしまった。

後日談:ずっとこの作品のDVD化を待っていたが未だにその気配がない。ところがビデオ版をポイっとくれた人物がいる。天才的なネット検索能力の持ち主、コシミハルだった。ぼくは飛び上がってヨロコンだのは言うまでもない。

この続きはまた。
「HOSONO THEATER(2)」 を見る
「HOSONO THEATER(1)」 を見る
posted by admin at 15:57 | quiet voice 2006

2006年08月29日

ミキサー:吉野金次さんのこと

 昨日はとても珍しい小さなコンサートがあった。或る人物を支援するチャリティで、北沢タウンホールという、やけに音の良い「小屋」で行われたそのライブには、矢野顕子が呼びかけた多くのミュージシャンが集まり歌を捧げた。小さなホールに収容しきれないほどの人が観に来てくれたので、とうとう前代未聞の「公開リハーサル」ということも試みることができた。夜の本番にステージに立ったラインアップは、矢野顕子、友部正人、大貫妙子、井上陽水、佐野元春、ゆず、そして矢野顕子から最初に声をかけられたぼくと、最近一緒に活動している仲間の高田漣、高野寛、コシミハル、浜口茂外也、伊賀航、鈴木惣一郎、そして徳武弘文という錚々たるメンバーである。

 これだけのミュージシャンを急きょ一夜に集めたその人物とは、エンジニア+ミキサーの吉野金次氏である。吉野さんは現在、脳梗塞のダメージを克服中なのだ。謂わばトム・ダウドやアリフ・マーディンが倒れたのと同じことがこの日本でも起こっていたのだ。

 吉野さんはとりわけ70年代のポップシーンにとってかけがえのないミキサーであり、自分との関わりでいえば「はっぴいえんど」の「風街ろまん」こそ、吉野さんなくては完成できなかった大事なアルバムである。その後、ソロの「Hosono House」では、本邦初の自宅録音を吉野さんのおかげで実施できたことも重要だった。それがなければ「キャラメル・ママ」も「ティンパン・アレー」もなかっただろう。この時期の大事なシーンには必ず吉野さんがいた。独立心旺盛な人であり、東芝をリタイアして以来、渋谷ジャンジャンの地下にスタジオを設け、そこを「Hit Studio」と名付けて多忙な仕事をこなしていた。沢田研二の一連のヒット曲、山本リンダの「ウララ、ウララ、ウラウラよ〜」もこのHit Studioから生まれたのだ。

 1970年代初頭、はっぴいえんどの「風街ろまん」を計画していた頃、レコーディングを誰にやってもらうかはとても重要な課題だった。今と違い、ミキサーがいなければレコーディングのメドがたたないのだ。しかもそのミキサー次第で音楽の質が決定される。当時の日本はまだ「ロック」の音をちゃんと作れるミキサーも見当たらなかったので、ぼくたちミュージシャンにとってはとても重要な課題でもあり、悩みの種でもあった。一枚目のアルバムをつくる時、知人に紹介されたミキサーと試しに録音したことがあったが、それはロックとはかけ離れた"クラシカル"な音で、お互いに失望を味わったことがある。ぼくたちの演奏力に問題があると指摘され、練習を積んでから来なさい・・と言われた時、やっとこの問題の重要さに気付かされた。なにしろぼくたちは演奏に関しては相当な自負心があり、何故それが録音で再現されないのか、という大問題に向き合わされたからだ。

 そのロックの核でもある「音」に拘った結果、吉野金次と出会ったわけである。当時東芝にいた吉野さんは元ランチャーズだった喜多嶋修とプライベートで実験的な録音をし、そのテープをたまたま聴いて衝撃を受けたことがあった。それはビートルズの実験精神に触発された、かなり高度な内容だったので、ぼくたちは即座に、その音を手がけた吉野さんと「傑作」をつくることにしたのである。

 その新作アルバム、「風街ろまん」は目黒にある黄色い塗装で有名だったモウリ・スタジオで行われた。ところがレコーディングの最終段階になっても、ぼくは一つの曲をずっと完成できていなかった。作詞をした松本隆から渡されていた「風をあつめて」が未完成だったのだが、与えられた期間も差し迫り、ともかくレコーディングに入らざるを得ず、歌いながら作曲するという綱渡りをする羽目になった。その際、吉野さんによる的確なガイダンスが「風をあつめて」を完成に導いてくれたのだ。歌の部分毎にパンチ・イン/アウトを鮮やかにこなす技術にプロの技を見せてくれたが、実際はぼくのだらしなさにかなり我慢をされていたように思う。しかしどんな非常事態にも冷静かつ俊敏に対応するのがプロなのだと教えらたものだ。

 この時の吉野さんは自分のミキサーとしての特徴を「中音域主義」と話していた。それはいわゆる「ドンシャリ」という、中域がカットされ高低域が増幅されていく時代に忘れられがちな音の品格のことだったと思う。その中域の美しさこそ、矢野顕子がピアノの音を録る時に、吉野さんを必要とする理由だ。しかし現在のデジタル音源が主流の時代、吉野さんの中域主義という自尊心は深く傷ついて来たであろうと想像する。

 だが21世紀になってその風潮にも変化が訪れ、「ゆず」のような若手ロックバンドが生演奏でレコーディングするような時こそ、吉野さんの存在は再び際立つようになってきていた。時が巡り、昨年はぼくも狭山で「Hosono House」を30年前の過去から現在へと繋ぐ機会を与えられ、その時PA席で吉野さんも同じ体験をしていたことであろう。その吉野さんが倒れたことは他人事ではない。自分が倒れたと同等のことだ。

 戦後世代が始めたロックという音楽も成熟、洗練、老化、そして再生という輪廻の歴史を持つに至ってきているのだ。死と再生という意味でも、ぼくの世代が消える前に、次の世代に知恵を引き渡す時期でもある。そのような大事な意味を、今回の支援ライブからくみ取ってみることもできる。こうして病気と闘う吉野さんへの支援は、個人という枠を超えて音楽への支援に繋がっていくのだ。
posted by admin at 12:37 | quiet voice 2006

2006年08月21日

夏の風物詩

 暑い!蒸し蒸しする上に虫が飛んでくる。羽虫が大量発生しているらしい。洗濯物にたかっているとか、網戸にはりついているとか、あちこちで羽虫の情報が羽虫のように飛び交っている。桜の季節には毛虫が大発生していたので、梅雨前後のころに白い蝶を白金辺りでもよく見かけたものだ。馴染みのあるモンシロチョウではなく、どうやら見たことのない外来種のようだ。

 こんなに虫が苦手なぼくも、子供の頃はモンシロチョウやトンボなどを手で摘んだりしていた。が、ある時期から一切触れなくなってしまった。都会から虫が排除されて、見慣れないものになったからだろうか。昔は東京でも春になればアゲハチョウが飛び交い、夏には大きな蛾が街灯に群がり、秋になれば風呂場にはコオロギが独唱をサービスしに来てくれたものだ。町の食料品店には必ず粘着性のハエトリ紙があちこちにぶら下がっていた。道には極く自然に犬や馬(!?)の糞があり、そこには必ず銀蝿がたかっていた。食卓にはその銀蝿よけに、白い網の傘のような(名は知らない)ものをかぶせていた。天井にいっぱいいるハエを、細長いガラスの筒にエーテルを仕込んだ不思議な器具で退治していたのは母方の祖父だ。

 虫は外にいる限り風情のある存在である。この世界は虫のために用意されているようなものだ。この時期にセミが鳴かなければ夏の風情はだいなしだし、秋の気配を運んでくるのも虫たちだ。ところが、この連中がひとたび人間の生活圏へ飛び込んでくると困ったことになる。猫は追っかけ、ぼくは逃げる。大雨の前にはセミが避難してくるので気をつけなければいけない。開けた窓のカーテンにじっとへばりついているので、雨が止んだら出てってくれとお願いする。部屋でジージーと鳴かれたら煩くて仕方がない。だが雨が上がればいつのまにか出ていってしまう。あの自慢の羽もやはり雨には弱いんだな。

 蜘蛛も言うことを聞いてくれる不思議な生き物だ。山の宿に泊まれば寝床に大きな蜘蛛がいる。電車の中にだっている。「尊敬さえする貴殿に毛頭恨みはありませんが、その容姿がどうも恐いので、見えない場所に移動してもらえないでしょうか?」とお願いすれば、「そうか、あい分かった」とばかりに、ただちに姿を消してくれるのが蜘蛛の偉いところだ。バリ島のウブドの宿では、寝ようと思ったベッドの上が虫の運動会のようだった。この時もそのリーダーらしき大きな蜘蛛にお願いしたのだが、即座に聞き入れてくれたのだ。しかしバッタはダメだった。どこに飛ぶかわからない虫は聞く耳を持たない。仕方なく部屋を暗くし、懐中電灯で誘導して外に出したものだ。

 蜘蛛に限らず虫には超能力があると思う。ナメクジが空間移動すると言い張るのはミッキー・カーティス翁だったが、小さな虫も空間を瞬間移動するに違いないとぼくも思う。飛んでると思ったら視界から消えてしまう。かつて部屋にいた小さな蜘蛛を捕獲し、遠くの公園まで捨てに行ったことがある。すると数日後には同じ壁の定位置に戻ってるのだ。独特の模様の蜘蛛なので見分けがつく。それが数回続き、蜘蛛は馬鹿にできないと確信したのだ。

 カナブンはセミのようにじっとしてないから落ち着かない。そもそも部屋に飛び込んでくる時から大慌てで壁にぶつかったりするので、音が凄い。部屋の中のどこに飛んでくるかわからないので始末が悪いが、それこそ猫の興味を引く行動なのだ。飛んでいるカナブンを見事にコテーンと叩き落としてイタブリが始まる。実はカナブンは死んだふりをして必死に逃亡の機会を待つのだが、猫はその機会を与えないほど監視が厳しい。そうだ、虫を撃退する専門家が猫なら、この際彼にお任せしようと思った。ところが飛び回らないカナブンには同情が集まる。もう一人の専門家が起きてきて、カナブンをティシュか何かにくるみ、ベランダの外に放り出して救出した。やれやれ、猫はガッカリし、ぼくは晴れ晴れとパソコンに向かう夜中であった。しばらくすると、また同じことが起こった。大慌てのカナブンが壁にぶつかりながら飛び込んできた。バカだなー。あれほど痛い目に合わされた部屋にまた来るとは!そんなアホにはもう同情は無用。こんどこそ撃退専門家は徹底的にやっつけるだろう。

 以前人様からいただいたラベンダー入り枕には大変な目にあった。ハーブにつく小さなアブラムシが大量発生してしまったのだ。小さな茶色の虫は時々は飛び回るが、ほとんど壁にしがみついて動かない。でも部屋の中なので事は深刻だ。害のない虫らしいが、その湧いてくるような「発生力」にやられてしまった。ぼくはその時からアブラムシ・キラーと化し、連中から恐れられている。全滅したはずの虫はこの季節に子孫が誕生しつつあり、また凄惨な事態になりそうだ。中東の争いのようなこの連鎖はいつまで続くのだろうか。皆さん、ハーブにはくれぐれも気をつけて!
posted by admin at 15:47 | quiet voice 2006

2006年08月14日

HOSONO THEATER (2)

前置き〜

 子供のころの話だ。夏休みも佳境の8月になると暑さもひとしおで、外で遊んでいると日射病になるというので、炎天下を避けて昼寝をさせられるのが日課だった。そういう暑い日の午後には大抵夕立が降り、涼風と雨音の快感で目を覚ます。起きれば西瓜が準備されていて、夕立を見ながら縁側でかぶりつく。その夜には涼しい風が吹いたものだ。そういう夏はいくら暑くても、捨てたものじゃなかったのだが、今の東京は大気の循環が不自然なせいか風情もなく、どこか凶暴性さえ感じる。先日も「激雷」という珍しい言葉が飛び出す程の、大層な雷雨だった。前日に「洗車」したのが祟ったのか・・。でも車を洗うと雨が降るのは仕方がない。天地の汚れが溜まるころ、ぼくは車を洗い、天は雨を降らすのだ。

 さて。先の6月24日から1週間かけて、渋谷のユーロスペースに於て、ぼくが音楽で参加した映画を特集する一週間があった。題して「細野劇場」。随分時間が経過したが、今回はその補完の続きを・・。

 1985〜87年は映画音楽の仕事が続いた。そのままいけばぼくは多分映画音楽作家になっていたかもしれない。だがこの頃、ぼくの父(日出臣)が脳梗塞で倒れ、人生の岐路に立たされることになり、精神状態は不安定だった。それは仕事にも影響していたが、そこに名匠・吉田喜重監督の新作に音楽をつけるというスゴイ依頼が舞い込んできたのだ。それが「人間の約束」(1986)だった。

 ところがこの映画、内容が自分自身の最悪の状況を絵に描いたような作品だった。神様のイジワル!主演の三國連太郎は父に通じる風貌(〜だが雲泥の差)があり、どうしても重なってしまう。老人の苦悶というシリアスな設定は、その時のぼくには受け入れ難い現実だった。父は倒れて以来、呂律が回らない程度で済んでいたが、本人はその状況が我慢できないせいか病室でいつも苛立っていた。息子と父というものはなかなかコミュニケーションが難しい。特にぼくは幼少時、仕事上で父不在の時期を数年過ごしていたので、帰ってきた父に馴染めないままのギクシャクとした親子だった。だがその父の衰弱した姿を見た時、このままでいいのだろうかと考え込んでいた矢先の仕事だった。映画は赤を抜いたブルー系のカラーという工夫が施され、とても美しい映像だ。が、当時のぼくにはその暗さは自分の心そのものだった。そこでぼくは珍しく感情的な仕事にはまってしまったのだ。あろうことか巨匠に「この映画には音楽はいりません・・」などとホザいたのだった。とはいえこの映画には音楽を最小限にすべき重みがあったことは事実だ。
 そしてそれは間違ってはいなかったと思う。特に老夫婦がお遍路さんに行くシーンに、救われる気持ちでつけた音楽は今でも大事なものだ。だが当時は完成した映画を客観的に見る余裕がないまま、父はその後まもなく死去した。そういうことから、その頃はネガティブな発言が多かったと思う。無礼な発言をしていた記憶は後悔でしかない。お許しください。

 こうした時期を過ぎ、徐々に安定してきた頃に、「ガイラ」と呼ばれていた映像作家から音楽の依頼があった。小水一男監督の「ほしをつぐもの」(1990)である。小水監督は日活ロマンポルノの代表作家の一人だったが、この北野武の企画による作品で「一般映画」(?)デビューとなる。ぼくはそれ以前に、同名のSF小説〜「星を継ぐもの」(ジェイムズ・P・ホーガン著)を読んでいたので、翻訳物かと思ったが、全くのオリジナル作品であった。とてもいいタイトルなので、使いたくなるのはよくわかる。しかも内容は戦時中の過酷な子供達を助ける猟師なのか精霊なのか・・というような、日本映画には珍しいアミニズムの香りがするものだったので、「パラダイスビュー」と共に印象に残る映画だ。

 ここで作曲した冒頭近くに出てくるメロディーのモチーフには不思議な因縁がある。話は少し長くなるが、同年の4月に全米で放映されたデヴィッド・リンチ(David Lynch)のTVシリーズ、「ツイン・ピークス」(Twin Peaks)が日本でも1991年から放映され、ビデオも順次発売されてその迷宮物語に没頭した人も多かった。最初のパイロット版LDを何気なく買って以来、その静謐な映像とアンジェロ・バダラメンティ(Angelo Badalamenti)の音楽に取りつかれていたぼくも、多くのファンと同様に一年後の唐突な終了に煮えきらぬ思いをしていたのだ。その穴を埋めるかのように登場したのが同じTVシリーズの「X-FILES」(1993)である。当初はこの映画にはさして興味を持たなかったのだが、「ミソロジー」(Mythology)という連続する陰謀物語を見るにつけ、その面白さに没頭してしまい、おかげでやっとツイン・ピークス病から立ち直ることができたものだ。そして問題はそのテーマ音楽だった。

 このマーク・スノー(Mark Snow)によるテーマ音楽こそ、例の「ほしをつぐもの」に書いたぼくのモチーフと同じだったのだ! このような偶然は今までにもあったことなので驚くことでもないが、それにしても同じすぎる。殊に「X-FILES」は好きなシリーズなので、毎回見るたびに気になって仕方がなかった。はっきりさせるべきは「どっちが先か?」ということだ。何故なら「サル真似上手な日本人」と言われないための証は、それしかないからである。そして明らかに「ほしをつぐもの」が先なのである。それは1990年に完成したが、一方の「X-FILES」の初放送は1993年9月10日である。とはいえ「ほしをつぐもの」のサントラも発売されず、、お互いに面識も何もないので影響ということは考えられない。故にここでも神様のいたずらと思えるような偶然が働いている、としか言い様がない。

 さて、今回も長くなってしまったので、この続きはまた!

「HOSONO THEATER(1)」 を見る
posted by admin at 09:26 | quiet voice 2006

2006年08月07日

矢野顕子リサイタルなどの近況

 先週は矢野顕子リサイタルに出て、去年から通算6度目のステージを無事終えました。「アッコちゃん」は洗練の度合いが深まり、大いに刺激を受けました。長く音楽を続けると、良くなる一方だということを実感した次第。

 さて、この出演を以て、一連のライブ活動にひとつピリオドがつくだろうと思っていましたが、今月28日にそのアッコちゃんの呼び掛けで、病に倒れた伝説のミキサー、吉野金次さん救援ライブが急きょ決まり、気を引き締め直しているところです。
 
 現在進行形で参加するミュージシャンが徐々に増えつつあり、良い意味でどうなるのか全く予想がつかない状態です。個人の救援ということで大々的になることは避け、下北沢のタウンホールという所でやることが決まりました。ぼく個人宛てに届いたばかりなので、オフィシャルに発表できる段階ではないのですが、フジロックに出たQuintetのメンバーに加え、東京シャイネスのメンバーからも参加したいと申し出がありました。当の内容はアッコちゃんの考え待ちなので、今は待機中ということをここに報告しておきます。

 主催者なども設定がなく、我々ミュージシャンが主体的に集まるライブなので、情報がまとまってないことなど、お詫びしておきます。そしてまた近いうちに詳細をお知らせできると思います。
posted by admin at 05:32 | quiet voice 2006

2006年07月31日

フジロック出演の感想

 7月28日に出演したフジロックの感想をひとつ・・。で、結局は懸念していた大雨も降らずに、適度な天候で演奏ができたことは幸いだった。しかも浜口茂外也(Drs,Perc)、徳武弘文(Guit.)、コシミハル(Acc.Pf)、伊賀航(A.Bass)という歴戦錬磨であるメンバーの演奏は、過酷な環境の中でも高レベルであった。とはいえ自分自身の出来は63点。自分の高校の時の平均点と同じで落第スレスレだ。前半のミスでマイナス20点、MCでマイナス13点・・というところか。じゃあ弁解を始めるとしよう。それができるのが自分のページの良い点だ。

 まず「山」の環境だったこと。苗場という大自然の中でついぼくは副交感神経が活発になり、舞台という各闘技場へ出るアドレナリンが不足してしまったのだ。それは去年以来連続した仕事の区切りがこのフジロックであり、電車に乗って山国に来れば「越後湯沢」「苗場」などというお休み気分のキーワードに触れ、更に良い空気に駅弁に山の景色とくれば、自動的に身体は「ワーイ、とうとう休みなんだねえ!」と勘違いしてしまう。だからステージでボーッとしてしまった。

 その上、新曲が多かった。これまで続けてきた「東京シャイネス」は6月の福岡公演で一段落し、狭山以来の「Hosono House」路線は一応「メデタシメデタシ」ということで完了したわけだが、このフジロックは次のソロの前でもあり、「どっちに行くんだ?」という時期でもあった。出演が決まった時に、咄嗟に付けたユニット名は「Harry Hosono Quintet」で、その響きからすれば自ずと内容が見えてくる。そこでずっと気になっていたスタンダードの名曲「Pennies From Heaven」やギターの徳武君によるレス・ポールへのオマージュ「Caravan」だったり、今までのフォーキーなものとは異なるレパートリーとなった。

 「Pennies From Heaven」は邦訳して歌うことにしたが、歌詞を覚えない怠け者に罰が当たることになる。歌詞の置いてある譜面台がやけに下の方にあるので、目の悪いぼくには読みにくい。この手の野外フェスでは事前にステージで音をチェックせず、いきなり演奏するのが常だが、特に今回は冒頭にダンスもどきで出て行くことにしていたので、一番肝心な「モニター」の調整もせずに、いきなり歌い出した。こうした場合、狭山の時もそうだったが、大抵なんとかなるものだ。しかしこの時は譜面台が低かったのは予想外であり、何かとてもやりにくさを感じたものの、そういう事態を把握するには時間がかかった。3日しかない練習では、そういう偶発的なイジワルには対処できない。身体は休んでいるし、頭は混乱するし、隣でぼくを観察していたコシミハルは、「アラアラ、顔が・・あらぬ世界へ旅立っているのね・・」と思ったそうだ。譜面台を読める位置に戻すことが必要だと気付いたのは、一曲目を歌い終わってからだった。

 自分の奏くギターの音量と音質が微妙で、隣のフィールドから聞こえてくるバンドの音に惑わされたのもマイナスの要因であった。思えばコンサートで自分たちの演奏に他者の演奏が被るということは、バリのガムラン合戦以外あり得ない。だがここではそれが前提となっていて、予め了解していたことだったとはいえ、いざその雑然とした音環境で演奏すると、かなり気になる。当然だな。デパートで買い物してんじゃないんだから。しかもオイラ達はロックフェスなのにロックをやらないバンドだった。ブギウギをやっただろうって?ブギウギはロックじゃない。ロックの祖先で、しかも実は繊細なんだ。

 そんな気持ちはMCに素直過ぎるほど出てしまった。これは単純にお客さんに対して失礼千万だった。入り口からこの奥まったステージまで、延々と歩いて見に来てくれたのだ。そういう穢れのないピュアな2千人もの観客に向かって曰く、「早く終わって早く帰ろう・・」と二度も言う出演者は、ぼく以外だと往年の・・その名を失念したが「もう帰ろうよ」で有名だった夫婦漫才しかいない。

 さて後半はブギでやっと調子を取り戻し、気分は持ち直したのだが、前半のミスやMCのマイナスが気持ちにダメージを与え、ステージを終えると「もうダメダ・・」などとかなり落ち込んでしまった。もう二度と野外には出ない・・。お天気ノイローゼにはもうなりたくない・・と。しかし周囲の人たちは心優しく慰めてくれた。見た人たちも心優しかった。「ま、お爺ちゃんだから・・」ということなのだろうが、それはそれで年を取る甲斐もあるものだ。

 今一つ慰められたことがあった。演奏後に高野寛君(他のステージに出ていた)がバックステージに来てくれて、最後の曲〜確か「ろっかばい・まい・べいびい」の時に舞台の上を大きな鳥が旋回していて神々しかった、と報告するのだ。蝙蝠かもしれないがそれならば大きくはない。夜に飛ぶ鳥はフクロウなのか・・「あ、タヌキが歌ってらあ、狙っちゃうぞ・・」ということなのかも。はたまた何ものかが御座したのかもしれない。そこで思い出せば昨年、笛の「雲龍」と京都の清水寺で奉納演奏した時には、「人面リス」が聞きに来たこともあったのだ。

 矢野顕子とのデュエットはそうあるものではないが、今回はその珍しい顔合わせが偶然起きた。「終りの季節」で登場してくれて、そのまま「相合傘」を歌ってくれた。ぼくは練習なぞしてないベースで歌うものだから、キーさえ知らずにメチャクチャだったが、アッコちゃんのおかげでいい雰囲気で出来たし、ステージを去る時に手をつないだのも初めてだった。そして例の高野君がさらに付け加えてて言う。「『相合傘』の時だけ雨がザーっと降ったんです!」とね。野外っていいことも起こるんだな。これだからまたきっと出ちゃうんだろう。

 追伸:この Harry Hosono Quintet、今後も数回ステージで場数を踏めば凄いバンドになるという予感を持った次第だ。「東京シャイネス」も4度目で感動的な「息」に達したこともあり、一度きりでは終わらないことは承知の上だ。メンバーともそう話したことをここに報告しておこう。実は今後がとても楽しみなんである。
posted by admin at 05:31 | quiet voice 2006

2006年07月24日

フアナ・モリーナ〜表現の力学

 先週は珍しくライブを観に行った。恵比寿のリキッド・ルームに高橋幸宏ユニットと、レイ・ハラカミ、そしてアルゼンチンから来た歌姫と呼ばれるフアナ・モリーナが出演したのだ。これは見に行かなきゃね。

 ユキヒロは「スケッチ・ショー」を卒業し、ソロを作った最近ではライブ活動が活発だ。ぼくが「東京シャイネス」でフォーキー路線に没頭する間、ユキヒロはスケッチ・ショーを基によりポップな展開を見せてくれている。今回のライブは本人曰く、「東京シャイネス」から引っこ抜いた?高田漣と高野寛と組み、いつもの権藤君を据えて落ち着いたステージを聞かせてくれた。中でもYMOからの「CUE」は今までにない静けさを感じる素晴らしいアレンジだった。そんなユキヒロの音楽にはますますイノセントな響きが感じられる。あれ?こんな身内への感想を書くなんて初めてだ。

 フアナ・モリーナには迂闊にも圧倒された。大人になるとそういうことは滅多にあるものではないので、油断していた。彼女のCDを聞くだけは感じられない「凄さ」を見て、ショックを受けてしまった。モリーナはたった一人でアンサンブルの技を見せた。歌の良さもさることながら、生ギターの腕も完璧で、それを瞬間サンプリングし、ループにしてダビングしていく。誰でもやりそうで実はやってないことだが、さらにその見せ方がマジシャンの域に達しているのは例を見ない。ローリー・アンダーソンにも言えることだが、表現を完成させようとする西欧人の根性には、並ではない力を感じる。大概の邦人パフォーマーは「どう見られたいか・・」という姿勢だが、この女性は「どう見せたいか」ということを基本に、音楽とその表現に研鑽を重ねて来たと想像できる。演奏終了後、思わずモリーナに「真の芸術家ですね」と言ってしまった。日本には語尾の上がるアーチスト(?)はいるが、このような真のアーティストには触れないようにしなければならない。何故ならその熱に溶かされてしまうからだ。かくいうぼく自身、間近に迫る「フジロック」のライブを辞めてTVでも見てようか、という思いが一瞬心を過ってしまった。いやはや、女性の強さと美しさを改めて感じた一日の話。
posted by admin at 07:14 | quiet voice 2006

雨の神さま

 7月は暑かったが、中旬から涼しくなって気候変動の端緒に晒される思いだ。こんな季節でも我々音楽家には休みなどなく、仕事の区切りというものがないのは辛い。このところは「東京シャイネス」のライブ映像をDVD化するという大仕事に追われ、特典映像なども新たに撮影するなど、やることは次々と多い。それが一段落した頃には次のライブがもう目の前に来ていた。7月28日に出演する苗場での「フジロック」である。「東京シャイネス」は福岡公演で一旦完結したので、今回はまた違うモードでやることになる。浜口、伊賀のリズムセクションは変わらず、新たに徳武、コシという編成だ。総勢5人なので、「Harry Hosono Quintet」という名目で出演する。昨日はリハーサルの初日だったが、自分自身疲労している割には声も楽に出て、なんとかいけそうな感じである。ただ不安なのは野外での天候だ。狭山の「HMF」のライブでは豪雨に見舞われたが、その時ずっと雨の中で演奏していたのは徳武君だ。彼は自分が正真正銘の「雨男」と思っているようで、近々「雨の神さま」を紹介しなければなるまい。しかし現在は九州南部を水浸しにした恐ろしい大雨が北上中で、週間予報を見れば新潟は傘マークだ。「降って欲しくない雨などない・・」というネイティヴ・アメリカンの考えに同意するにしても、今回だけ降って欲しくないなあ、とちょっぴり思うわけである。
posted by admin at 06:57 | quiet voice 2006

2006年07月17日

この一週間・・

 さきほど午前1時、デイジーホリデー(Inter FM)の放送を聞いて、その内容の時差にがく然としたところだ。ぼくとコシミハルの会話に、W杯のことが出てくるのはいいとして、ジダンがかっこいい云々、の件はやはり時事ネタとして時差がありすぎる。というより、ラジオが一週間の前録りをすることが、今の時代の速度に時差をを生みがちだということだ。特にこの一週間は予測のつかない、いろいろなことが起きた。今回の録音はW杯決勝戦の前であり、ジダンが頭突きをすることなどもちろん思いもよらない。結局サッカーの話題は、それだけが独走したともいえる。センセーショナリズムは全ての福音を駆逐してしまうのだ。そういうわけで、放送中にジダンを「サッカーの神様みたい」と評したことも、色褪せた発言になってしまったのが残念である。生放送以外の場合は極力時事ネタは避けねばならくなりそうだ。

 そしてこの一週間はそれだけに留まらなかった。時事はさておき、四国を旅している間に知人の訃報を知り、衝撃が走った。帰京する日には盟友の入院を知らされ、それもびっくりだった。

 四国に行ったのは「お遍路さん」に関係する仕事だった。この仕事の件はゆくゆく詳細を報告することにして、遍路の歩く道を車で走ってみて思ったことは、「エ〜ッ?ここをず〜っと歩くの?!」というほど過酷な距離感である。「歩きお遍路」さんはそれでも年間15万人だという。しかも若者が増加しているのだ。ウーム、ぼくはちょこちょこっと歩けばいいや・・なんて思っていたのだが、人や自分の人生を思うと、このまま四国に残って歩かなきゃいけないんじゃなか?と考えてしまった。
 
 ぼくはなんとなく、60歳を過ぎたらお遍路さんの旅に行こうと思っていた。一年後に還暦を迎えるのでまだまだ、もうちょっとと油断していたが、仕事を通して早くもお呼びが掛かってしまい、お遍路さんを考える機会を得たと同時に、安易に捉えていたことを「遍照金剛」に見透かされた思いだ。

 最近の人々は病気も多く、長寿大国日本の先行き不安である。強くなっているのは耐性を獲得しつつあるバイ菌だけじゃないだろうか。こうした視点では、人生が生老病死との闘いに明け暮れるだけかとも思う。お坊ちゃんだった釈尊王子は、初めて巷間を歩き、東西南北の道に生老病死を目撃し、その絶望感から出家して瞑想に入った。そうして得た悟りはこの世はマーヤ〜幻想である、ということだ。観世音菩薩が深い瞑想で得た悟りも同じく、この世は無であるから苦もない、という般若心経に表現された世界観だ。お遍路さんという行は、その世界観を獲得するための、弘法大師が作り上げたひとつの準備システムかもしれない。そうか・・やはり行くべきだろうな、70歳過ぎたら・・、ボチボチと・・生きてれば・・ブツブツ・・。
posted by admin at 03:44 | quiet voice 2006

2006年07月10日

W杯って何と読む?

 先週の細野劇場の続きは次週に回すことにして、日曜にラジオでお話しをした話題のフォローをしておこうと思う。思いつくままのコラムなのであしからず。

 で、最近はW杯でもちきりだった。今もまさにフランスとイタリアの決勝が延長になだれ込んでいる真っ最中だ。あ、PK戦でイタリアが勝っちゃった!・・こうして我々のような「俄ファン」でも、夜中だってつい中継を見てしまうので、明日は眠い人も世の中には多いだずだ。日本対ブラジル戦の時も夜中だった。やれプレスが弱いとか、後ろにパスを戻すな・・などと何も知らないのに小うるさいことを言いいながら見ていた。もし競技場に行けば気分は高揚するだろうし、きっと立派なサポーターになれるのかもしれない。4年後は行こうか・・なんて思う自分はやっぱりただの俄ファンなのだ。

 さて、「W杯」を「だぶるはい」と読んでいたのは僕だけだろうか。そういえばTVなどでは「ワールドカップ」という言葉は飛び交うが、「だぶるはい」というのは聞いたことがない。黙読だけなら大勢いるはずだが、声に出して、しかもラジオでそう言ったのは僕だけらしい。だってそう読むのは決して不自然じゃないでしょ?「五輪」をオリンピックと読まず、「ごりん」と読む場合もあるし。「野球」だって本来は「ベースボール」と読むべきなんだろうが、「やきゅう」って言ってるじゃないか。中国ではどうなんだろう・・。ちなみに日本でニュースに使う「鳥インフルエンザ」がどうも冗長なせいか、「鳥インフル」なんて中途半端な略語を使うのが納得できない。これを中国では当初、「鶏疫」と書いていたのが優秀だったので、ぼくも書く時はそうしている。最近では「家禽感冒」なんてのも記憶がある。ついでに言えばこの「鶏疫」、世界で静かに蔓延しているのが不気味だ。

 世の中には読むだけの文字というもがあるな。声に出して読む必要がない文字。例えば駐車場などに書かれている「裸火厳禁」。日本語におけるこの「重箱読み」的なモノは手ごわいぞ。これはおそらく「はだかび」と読むんだろうが、いつも心の中では「らび」と読んでいる。後半の「厳禁」が音読みなので、「裸火」もつい音読みにしてしまうのだ。同じ駐車場では「月極」というのがよく話題になる。「げっきょく」じゃなく、「つきぎめ」と読む、らしい。でもそんな文字は声に出して読む機会など、いまだかつてやってこなかったし、これからもないと思う。皆、心の中で勝手に、そして曖昧に読んでいるわけだ。

 勝手に読んでいた漢字もある。「代替医療」はどうだろう。ぼくは「だいがえ」などと読んでいたが、「だいたい」だとは知らなかった。「顰蹙」。これはまったく読めない。「ひんしゅく」なのだ。「入水」は「じゅすい」と読むが、これは昔から知っていた。日本には入水事故が多いからかもしれない。「生蕎麦」をずっと「なまそば」と読んでいた人がいた。あ、「きそば」なんですよ。「老舗」は「ろうほ」じゃない。「しにせ」だ。あげればきりがないので、各自考えることにしよう。

 こんなに曖昧なのが日本語の世界だ。恥ずかしながら60歳にならんとするぼくも、この曖昧な言葉の海におぼれてしまう。いわんや少年少女に至っては・・。そう考えると、パソコンの日本語入力変換はいかに凄い発明か理解できる。ただここで考えてみるに、その曖昧さというものは良い面があることを忘れがちだ。心の持ち方にもそれは言えるかもしれない。なんでもはっきりさせる必要なんかないのだ。ああも言えるし、こうも言える、というのがこの世の真の姿なんだから。厳密さを極めて到達した量子物理学の結論が、世界は不確定で、ああも言えるしこうも言えるというのだ。
posted by admin at 06:09 | quiet voice 2006

2006年07月03日

HOSONO THEATER(1)

 先週まで渋谷のユーロスペースに於て、ぼくが音楽で参加した映画を特集する一週間があった。題して「細野劇場」。主催は「映画上映専門家養成講座」(?!)の生徒さんたちで、恐れを知らぬ実行力のおかげか、映画の上映後にゲスト・トークやライブもあり、連日盛況だった。この場を借りて佐野史郎、キセル、鈴木惣一郎各氏に、そして司会の川村恭子さんらに感謝しておきたいと思う。

 自分が手がけた映画音楽はそれほど多くはない。映画音楽作家ではないので、たまたま数本の映画に関わったということだ。チラシにも書いたように、深く入り込んだものもあれば、行きずりのように関係したものもある。まるで過去の行状を明かされる思いだ。それならば自分自身でも補完しておこうと思う。

 初の仕事は1974年、神代辰巳監督の「宵待草」だった。20代の当時やっていたバンド、「キャラメル・ママ」のメンバーと共に調布の日活スタジオに呼ばれ、埃っぽい土間状態の撮影スタジオにスクリーンがあり、そこにかかるシークェンスを見ながら即興C&W風に演奏したものだ。これぞ伝統的な活動写真の録音スタイルだった。神代監督に挨拶した時には、スタッフになにやら怒っている最中で、灰皿を投げたような記憶があるが、後で聞いた伝説と入り交じってるかもしれない。こっちは無知な若造ミュージシャンだったし、多分バイトで呼ばれたようなものだろう。

 大人になってから本格的な映画音楽の依頼が来た。それがアニメーションの「銀河鉄道の夜」(1985)だ。ところが映像は音楽を聴きながら、後から作るのだという。しかも宮沢賢治の詩のような構成に添っていくと、音楽の数が30数曲になるという。それもほぼ異なる音楽で、バリエーションの融通は利かない。この差し迫った仕事を通して、天から降ってくる音楽を待つということを覚えた。ただし常に「宮沢賢治に気に入られる」ことを考えつつ、無我に入り込み、即興で作るという荒技だ。そのやり方をコシミハルに強要し、その場でモチーフを作ってもらうことも試みたが、その結果は素晴らしいものだった。「ジョバンニの透明な悲しみ」「鎮魂歌」などはその成果だ。

 再び同じ制作陣によるアニメーションの「源氏物語」(1987)は収穫も大きかったが苦い思い出でもある。「銀河鉄道」の成功に比べ、この映画の興業は厳しい結果となったのだ。とはいえ、前回と同じように音楽先行なので、映画の出来は予想不可能のまま作曲を始めた。ここで初めて「邦楽」を勉強することとなり、琴を買ったはいいものの、調弦は適当、弾き方も適当、それがぼくの音楽との接し方だった。後に高名なプロの筝曲家の方から、源氏の琴の曲をカヴァーしたい、と有り難い申し出があったのだが、調弦も覚えておらず、即興で演奏したので再現は不可能だった。もっと丁寧に対応しておけば良かったのだが、残念。もうひとつ重要な弦楽器がある。韓国の伽耶琴(かやぐむ)である。この響きには昔から強い憧れがあったので、たまたま韓国に仕事で行くことがあり、この楽器もその伝手で手に入った。ただしこの楽器は手ごわいので、日系女性の先生について数回ほど習いに通ったものだ。韓国の音楽には感情が溢れ、雅楽でさえ躍動する。こうして邦楽というより、より広い汎アジア的なアプローチを試みたが、うまくいったとは限らない。源氏物語についてのイメージを勝手に飛躍してみると、高床式の南国的な世界が顕れる。ヤシの林の中に社があるようなイメージに、一人勝手に興奮し、その気分で作曲に臨んだのだ。ところが完成したアニメは破綻のない端正なものだった。後日、映画がヒットに恵まれなかったのはぼくの音楽せいだと陰口を叩かれ、八つ当たりにもほどがあると思った。

 しかしその汎アジア的なやり方は、沖縄映画「パラダイス・ビュー」(1985)ではうまくいっていた。音楽のモチーフは多岐にわたり、中近東、インドネシアなどの空気感が沖縄と自然に融合していた。当初、高峰剛監督にこの映画で主演しないかともちかけられたが、素人ゆえにとんでもないこととお断りし、代りに脇役で出演することに落ち着いた。そして出来た映画を見てつくづく主演をやらなくてよかったと思った。沖縄の言葉で長尺を演ずる小林薫の苦労は如何ほどだったか・・。(続く)
「HOSONO THEATER(2)」を見る
posted by admin at 08:53 | quiet voice 2006

2006年06月21日

夏休み?

 というわけで新生DWWWがスタートしました。毎週月曜に更新するべく、につれづれなるまま書いていくつもりですが、その第一回。
 ぼくは最近朝型に移行し、夏のサイクルになりつつあります。冬はやはり冬眠に近いライフスタイルになりがちで、新陳代謝を極力抑えるという、遺伝子レベルの体質もあり、脂肪がたまる一方でしたが、夏にはそれを落とすことを考えてます。7月28日にはフジロックに出るしね。
 現在ソロのレコーディング期間ということになっており、さぞや曲作りが進行していると思いきや、ぼくは久しぶりの休暇気分になってしまい、夏休みと勘違いしてノンビリしてしまいます。周囲の関係者諸君はそんなぼくに大きい不安を抱いているようですが、だいじょうぶだから。曲作りはいっきに集中してできるので、まだまだ先でもだいじょうぶ。だから土曜の夜には映画なんか見ちゃいました。「ポセイドン」。
 遊園地の乗り物に行くような気分で映画館には行きます。ジックリ見るものは部屋でDVD、そして大画面の映画館は娯楽に徹底します。だから名作などの期待はしないが、ワクワク感は欲しいものです。気楽だと思った「ポセイドン」は「Uボート」を作ったウォルフガング・ペーターセンならではの水浸し緊迫パニック映画で、見ている最中は「ああ、人間て死んじゃうんだなあ・・」と思い、見終わったら「ああ、まだ生きてる・・」と思い、息苦しくて疲れたな。こんな映画は素人には作れない職人芸です。冒頭の客船の俯瞰からデッキにいる人物へのクローズアップは、シームレスの綺麗な処理で新鮮。予告編では「日本沈没」のリメイクがかかり、これ、見ちゃうな。周囲はあきれるばかり。

 20世紀の終末感は今、再びリメイクという形で再燃しているようで、ぼくの歌「終りの季節」は今も自らの内で続いているという感じがします。先日は尾張一宮まで行き、雲龍、コシミハルと共にお世話になった先生のお通夜に参加しました。岐阜の渡邊丈夫という先生は精霊のメッセンジャーであり、各地の霊場へお供して歩くうち、色々貴重な知恵を教えていただいた師匠でもあります。齢を重ね、このように知人がこの世を去ることが多くなりました。そうでなくとも20世紀の芸術家達が追悼する間もないほど、次々にいなくなってしまい、とても寂しいかぎり。しかしその精神や作品は不滅です。ではまた来週。
posted by admin at 02:03 | quiet voice 2006